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【2020年】鳴門教育大学入試解答速報掲示板 - 鳴門教育大学掲示板

【2020年】鳴門教育大学入試解答速報掲示板


0名前を書き忘れた受験生 2017/02/11 21:18  1616view
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31田布施 蟻巣 2019/12/30 05:52
Dの国が崩壊した後、Dの一族を追い出しその国に留まろうと(乗っ取ろうと)した全ての一族は混乱状態に陥り以後その文化と信仰(と一部は言語も)は長い間失われたと推測される。現在のユダヤ教は、シュメール神話やゾロアスター教、そしてエジプトのアトン信仰などの影響を受けて発祥したと考えられておりそれは一部事実だろうが、しかしその「大本」はそれ以前にあった更に古い信仰であり、現在のユダヤ教はその(一部の)「復古」である。そしてそれはシュメール神話やゾロアスター教やその他各地の神話伝承から「逆算」されたものではなく、モーセをはじめ初期のユダヤ教預言者達に断片的に、または元の形から変形した形ではあるが直接「啓示」として「与えられた知識」から発祥している。そしてこの「霊的啓示」からはじまったユダヤ教はシュメール神話やゾロアスターやアトン信仰等より恐らく「原型」に近いものだが、しかし現在のユダヤ教の教えには、クルアーン(旧約聖書)の時点で既に(一時的に必要である等の理由から神により意図的に放置され、また無害な解釈も出来るものだが)悪神(悪魔)の教えが多数混在している(ユダヤの過越の祭り等も恐らくそうではないかと私は思っている。ただしこれはモーセはじめユダヤ教の聖人達が神ではなく悪魔に使われていたと言っている訳では決して無い。残酷な行為も諸々の事情から避け難い為に真の神が命じた物も確かにあり、また教えには後に「歪められた」ものも多い)。そして秦氏を通してユダヤの影響を受けた日本(と奈良時代以降の本州からの移民が多数やって来た琉球)の神道や伝統文化にもその悪神の教えが多数混在しており、上記の蘇民将来の話(祇園関連)や節分の豆撒き等はそれに当たる。釈迦が興した仏教が釈迦が元いたバラモン教の教えを聖典とせずほぼ完全に捨て去った事とは対照的に、
ユダヤ人であるナザレのイエスが興したキリスト教は旧約聖書も聖典としあくまでユダヤ教の一宗派として発生したが、イエスが旧約聖書を否定しなかったのはユダヤ人達にイエスがその教えをより広く浸透させる必要があった為というのがその重大な理由の内の一つであったと私は見ている。後年の事を見るならば、釈迦がいたインドは歴史的発見なども数多くありまた世界史におけるその影響も決して無視できる程小さくは無いが、しかしカースト制度の影響かその巨大さの割に欧州やアメリカは勿論中国に比しても世界全体に対するその社会制度的、科学技術的、世界情勢的な影響と言うのは(「陰土(インド)」と書ける事もあってか)かなり限定的、悪く言えば「パッとしない」ものであり、対してキリスト教の広まったヨーロッパはその後の世界への影響を見れば説明するまでも無く絶大なものであり、そこに浸透したキリスト教の世界への影響も釈迦が興した仏教より遥かに大きい。イエスが旧約聖書を否定しなかったのは後に白人達に多大な影響を与える(人種的)ユダヤ人達になるべく多く教えを浸透させ、それによって白人達の、その後の世界への「悪影響」を極力抑えまた後の世界の動きを「制御」する為であったと私は思っている。対して釈迦についてはバラモンを否定しまた一方で当初は悟りを開いてもそれを積極的に人々に広めようとはしなかったが、これは後のインドの世界への影響がそれほど大きくなく、釈迦が自らの教えをインド人達にあまり広める必要を感じなかった為と見る事も出来る(しかしインドでは廃れても仏教は後に中国や日本などに多大な影響を与える為、釈迦は一転して布教に励み出したとも)。もし、イエスが処刑される事無くその教えを当時のユダヤ人達に十分と言える程浸透させる事が出来た場合、イエスは釈迦のように旧約聖書を(完全にではなくとも)否定していたのではないかと私は思っている。(一方でムハンマドが旧約聖書を否定しなかったのはムハンマドがイスラムを直接広める対象もユダヤ人達であった為というのは勿論あるが、それ以上にユダヤと対立する運命にあったイスラムが旧約聖書を否定するとイスラムとユダヤの和解がし難くなる為というのもあったと私は見ている。)

上記の歴史観等はあくまで私の個人的な考えであり、私は別にこの考えに固執するつもりは無い。もし現実にこれに対する反証となる新たな事実などが私のアンテナに引っかかりそれが確かだと思えたなら、私は容易く自説を翻す。また、例えばY染色体を調べてみて縄文人固有の型であったとして、それは男系でほぼ確実に継がれるから残っているだけであり、それ以外のもっと重要な、個人の能力や精神に関する遺伝子なども含めた他の遺伝子の大部分は現代日本人は既に殆ど縄文人由来の物を失い、遺伝子の大半はもはや中国人、朝鮮人と殆ど同じものになっているという話であり、また更に広い目で見れば人間とチンパンジーの遺伝子も殆ど一致するという話であるのだから、縄文由来の遺伝子を持っていたとしてそこにアイデンティティを抱くのは勝手ですが、それを以って自分こそが縄文人の血を強く受け継いでいる特別な存在だなどと考えるのは愚かとしか言えず、またそれを以って他者を見下し特別扱いを求めるのはむしろ縄文人の精神性からはかけ離れていると言える。また文化についても神道や日本の文化はユダヤの更なる源流であり特別だなどと思っても今の日本の文化は勿論神道についてももはや縄文の頃の物とは変質しかけ離れたものとなっているだろう為、そこに他の教えには無い特別な力を期待しても殆どが期待はずれに終わる事だろう。縄文の頃の信仰には(制限が多く「誇示する事」などできなかったが)確かな力があった。しかし縄文の信仰(と文化と歴史)の大半は、必要最低限を除いて崇神天皇の手によって失われた。それは幾つか複数の理由からと思われるが、その内の一つは「罰を防ぐ為」である。その頃には日本人が時代を経る毎に悪化していく事はもはや明白だったが、同じ罪を犯すにしても悪いと知りながら罪を犯す事と、悪い事とは知らずに罪を犯す事のどちらの方が罪が軽いかという話である。

更に怪しい話は続くが、時代は不明だが恐らく縄文海進が進んで大阪平野が海に沈みはじめ、また植生の変化などもあってか関東地方の人口が急速に増え始めるなど本州全体の人口分布に大幅に変化が起き始めた縄文早期から中期にかけての時期に、具体的な戦争行為にまで発展していたかは分からないが各集落間での対立が強まり、またそれまでの男系王族の求心力が(恐らくそれまでの住処を追われる海進が止まらない事や海水面の上昇と温暖化に伴い激化した台風等の災害等を主な理由に)失われ縄文人達は日本全体としての「まとまり」を欠いた状態に陥った。この(災害が多く)ギスギスした時代において当時の縄文人達は自分達を纏め得る新たな王を探し続け王を何度も変えながら最終的に富士山周辺を拠点として女王が誕生し、以後「天照大神」であるこの女王とその女系子孫達が縄文人達を統治する事となる。(ここで言う天照大神とはあくまで縄文時代の物質世界の日本の歴代女王たちの意味であり、神典における天照大神が示す意味とは無論ここでの意味だけに留まらず、霊的世界における意味も含め複数の意味を含有している)この天照大神の女系は初代こそ富士にいたがそれから数代の間に伊勢に移り、その更に後に元の縄文人達の中心地である京都周辺地域に移る。天照大神が何故王として認められたかは恐らく主に関東地域(関東平野)の人口増に伴う食料問題を解決した等の理由からであると思われる。(関東に多い落葉樹林は関西に多い照葉樹林より実を多く取れるがしかしその植生は偏りが大きくここから食料を得るとごく限られた種類に依存しがちになり、その限られた種類が不作となると食料豊富な状態から一転して一気に飢饉に発展し易いという。天照大神(初代)はこの飢饉に対する対策としての保存食の造り方を普及させたり植生の違う集落間を和解させ集落間で供給網を敷き不作の際に助けあう関係を築かせるなどしたのかもしれない。また関東平野で多く縄文人の遺体が見つかっているのはこの飢饉によって一度に多くの人が死に、遺体の多さから自然に還元する葬送が出来ずやむなく一所に集めて墓に埋める事が度々あった為というのもあるかもしれません。)天照大神の出現は恐らく関東の縄文人達の人口がピークに達する前であり、ピークに達した頃には既に天照大神は近畿に移っていたと推測される。
一方そのすぐ後の時代においてモンゴルや満州で「オロチョン族」(現在のオロチョン族の祖先というよりモンゴル満州からロシア北東部周辺にかけてのC2男系を持つツングース民族達の内の幾つかの民族の祖先たちの混成集団と思われる)が侵略的に勢力を伸ばし、その中の一団(或いは全部)が朝鮮半島から海を渡り現在の石川県(加賀国)、恐らく小松周辺に上陸し元いた地域の寒冷な気候に近い地域を求めてか各地の縄文人達を襲いながら北進し新潟(高志国北端)を経由し最終的に群馬県の「榛名山」周辺地域に拠点を構え、そこで周辺の縄文人達を度々苦しめていた。一方そこから地理的に近い現在の長野県松代、皆神山周辺地域では、何代かは不明、恐らく初代の天照大神の弟の男系子孫である一族がその地域を治めていたが、その跡取りの男が群馬に巣食っていたオロチョン族の女性と恋に落ちて駆け落ちしたがオロチョン族に殺され、最終的にその女性が遺した男の赤子だけがかろうじて皆神山に連れ戻され跡取りとして育てられた。その子は成長すると父母の仇であるオロチョン族達を群馬から追い出す事に成功し、オロチョン族達は高志の国を戻り今度は加賀を南進し天照大神のいる近畿圏の縄文人達の中心地近く(大江山)に一時的に拠点を構えたが劣勢と見てすぐにこの場を捨て、追っ手を警戒し海に出てもっと人が少なく好き勝手出来る場所を求めて西進し現在の鳥取県米子の境港に上陸、伯耆大山周辺に居を構え、そこでもまた現地の人々を苦しめ続けた。このオロチョン族というのが縄文時代の物質世界という意味においての所謂「八岐大蛇」であり、そして皆神山の統治者とオロチョン族の女性との間に生まれた赤子が同意味においての「スサノヲ」である。オロチ退治の出雲は現在の出雲大社のある島根ではなく元は雲が常に出ている山である伯耆大山周辺を指しており、日野川も元は血の川である。スサノヲの八岐大蛇退治の神話は金属剣である草薙剣の存在から金属器伝来後の事と今では考えられ八岐大蛇は暴れ川の事でありその退治と草薙剣の入手は川の制御と製鉄技術の獲得だなどと言われているが誤りであり、スサノヲの八岐大蛇退治は縄文時代の事でありまた金属器と(大規模な)金属精製と鍛冶技術の伝来は崇神天皇の時代前後の事である。草薙剣をはじめ三種の神器は元は(「寄り代」はあっただろうが)「実体」を持たず三種の神器が「丈夫で長く保存できる」金属器に移されたのは崇神天皇の時代の事であり、
剣や玉や鏡とはその権能の喩えである。崇神天皇は太古の信仰にあった「力」を失わせ、またそれまでと異なり軍によって暴力で民を鎮圧し税を以って民から財を奪うようにし、また戸籍によって民を厳密に管理しようと決断したその最大の理由の一つは恐らく金属精製、加工技術の伝来(の予兆)である。金属器は容易に民に力を与える上に加工技術を得たこの時代ならば量産も容易で、手にした者達が欲望のままに奪い殺す事を容易く実現できるこの武器が現われた中、性質が悪化し続ける民達をこれまでのように人々の善意のみを頼りに緩く統治していては必ず国が大きく乱れ夥しい血と穢れが齎され、更に多くの「秘法」が失われまた穢され(天罰的に)「取り返しのつかない」より破滅的な事態を招く事になる等の理由の為である。故に崇神天皇は三種の神器など「国を維持する為の必要最低限」のみを残して太古の秘法を隠し(失わせ)、また民を力と財(金)によって統治するよう方法を取られる事となった。無形の霊は、それを見る者が穢れれば、特に神聖な霊には見る事も触れる(干渉する)事も出来なくなり、故に三種の神器は無形のままならば容易く失われていたが、具体的物質に移せば例えどれだけ穢れようと見えなくなる事はなく無形であるより遥かに失われ難くなる。スサノヲに話を戻すと八岐大蛇であるオロチョン族達が群馬から逃げ近畿に向かうのを受けて、スサノヲもそれを追って近畿へと向かった。スサノヲが天照大神と邂逅するのはこの時で、この時天照大神がスサノヲを疑って共に琵琶湖周辺(恐らく東近江周辺や竹生島)で行なった天の安河の誓約では実際に天照大神とスサノヲが子を成した訳ではなく、互いに連れていた部下(スサノヲ側は三女神に相応する三人の女性、天照側は五男神に相応する五人の男性)をそれぞれ相手に部下として仕えさせて彼らの性質や言動や仕草等を以って相手が信用に足るかどうかを判断した事であると推測される(ただしこの時とは別にスサノヲの本当の子としての五男神と三女神も後に生まれている)。結果として信用を受けたスサノヲはしかし記紀ではその後暴れ回り結果天照大神が岩戸に引きこもる事になるが、しかしこれは濡れ衣で本当は記紀に挙げられた罪はスサノヲが行なった事ではなく、スサノヲが連れてきた部下の中でオロチョン族から帰順した後に変心を起こした者や、

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32田布施 蟻巣 2019/12/30 05:52
また天照大神の近くにいながら悪心を抱えスサノヲに罪を着せる事で秘めた欲望を発散した上で罰を免れようとした者や単にスサノヲが気に食わず貶めようとした者、またはスサノヲの追撃を警戒したオロチョンの斥候が天照との間の対立工作や単に自身の欲の発散の為に行なった事であり、スサノヲの罪は全て濡れ衣である。しかしスサノヲはそれらを明かす事による民の不安や国の混乱、一度は改心した部下や一度は分かり合った人々が処罰を受ける事への心苦しさ、また自分が来た為にこれら諸々の凶事が起こった事に対しての罪悪感や更に八岐大蛇を追う事が長引く事を憂慮してなどの諸々の理由から全ての罪を背負って天照大神の国を追放される形で離れ、八岐大蛇に勘付かれるのを恐れ海路を進み安来湾(美保湾)から上陸、八岐大蛇のいる伯耆大山へと向かう。女装し酒に酔わせて騙し討ち云々というのは本当にやったのかはわからないが(どうやら本当にやったようですが)そのままではまた逃げられるので何らかの不意をついた形ではあったと思われるがスサノヲは八岐大蛇と直接接触し、やはり本当に殺したのか単に説得し帰順させただけか或いは両方かは定かではないがスサノヲは八岐大蛇たるオロチョン族達を伯耆大山にて完全に無力化する事に成功する(日野川は元は血の川と書いたがこの血とは八岐大蛇の血であるという。しかしこれだけでは八岐大蛇はスサノヲが殺したのかスサノヲに帰順した者と反対した者との間で同士討ちが起こって死んだのかそれとも恨みを抱いていた周辺住人達によって殺されたのかまでは判らないが、私は恐らくオロチョン達はスサノヲ以外の者達の手によって、それも殆どが同士討ちによって死んだのではないかと思っている)。その際、八岐大蛇の頭達に連れて来られて使われていた「尾」たる部下の中に、スサノヲの持っていた「霊的権能」の一部についてそれを超える権能を持つオロチョンの者がいた。この霊的権能が所謂「草薙の剣」の事である。「剣」と喩えられる通りにその権能は恐らく「外敵を退け」また(精神的な意味で)「倒す」ものであり、また「科学のメスを入れる」という言葉がある通り物事の性質を「切り分けて」分析し、物事の道理を「判別」する「智慧」を司る権能であると推測され、スサノヲは元々「天之羽々斬」という剣で喩えられる優れた権能を持っていたが、
これはしかし比較的乱世とは言え基本的に平和で変化の少ない縄文時代の日本で伝えられていたものであり、一方でこの尾のオロチョンの者が持っていた権能は争いの絶えない大陸で多くの者達が互いに霊的な面も含むあらゆる面で出し抜こうとし続け諍い合い争い合う中で(恐らくC1a1がC2に残した権能が)「鍛えられて」出来たものであり、それ故にスサノヲの元々持っていた権能を一部超えていた。これが天之羽々斬が草薙剣に当たり一部欠けた事に相応している。(俄かには信じ難い話だが、スサノヲの持つ天之羽々斬は本当に金属剣であったという。金属精製と鍛冶技術の伝来前に鍛冶の神である天目一箇神(に相応する人物)がオーバーテクノロジー的な固有の技術で少数ながら造っていて、統治者や限られた者のみが手に出来故に原始的武器に対して絶大でまたその為民への威圧効果も絶大だったいう。しかし弓矢がまだ無くても投槍と投石がありそもそも金属剣でも石(石器)は切れずまた金属武器が他に無いなら多対一の戦闘では壊れた武器を捨て相手の武器を利用する事も出来ない。酔いつぶれ寝ている中での不意打ちだとしても単なる剣一つでは直接戦闘で戦闘集団を鎮圧出来たとは思えず、そもそも量産化されていないという事は技術ノウハウが限られた小数のみにしか伝わっておらず発見と発想の差から技術的拡がりも小さくなりそんな中で多人数斬りに耐え切る強度の剣を造れたかも疑問であり、大蛇退治でも「頭」は兎も角「全身」を斬るには不十分であったと思われる。当時金属剣があったとしてその主たる用法はやはり相手を怯ませ服従させる霊的権能の「媒体」(心理的効果含む)としての機能(祭祀用の剣)と見るのがやはり妥当と思われる。また草薙剣については「頭」ではなく「尾」から出てきた事から「部下」が持っていたという事になり金属剣が殆ど統治者しか持っていなかったという事とも食い違う為やはり元が金属剣だったとは考え難くなる。優れた武芸者の為に持たせていたとも考えられるが、しかしそれならまず「頭」からも(それも複数)草薙剣相当の剣が出てくるはずである。)
この草薙剣の権能が具体的にどういうものかは判らないが、恐らく「帰神」、所謂「神懸かり」に関する法がそこには含まれていたと推測される(神懸かりとなった人間の「雰囲気」は異様であり呑まれた者は攻撃する意思を失い易く、また神懸かりの者は本来なら知りえない筈の知識まで話す事がよくあり、外敵を退け倒しまた智慧を司る剣の喩えと似通った部分がある。尚、これは神懸かりの法がそれまでの日本に無かったという訳ではなく、より優れたやり方だったという意味である)。果たしてこの「尾」の者を直接送ったのか、それともこの者から草薙剣たる法を伝えられたスサノヲがこの法を更に伝えだけなのかどちらなのかは判らないが、スサノヲは天照大神に草薙剣を献上した事で罪を許され、また出雲(伯耆大山と現在の出雲も含む)の地を与えられスサノヲは自身が救った奇稲田姫を嫁に貰い須賀の宮で暮らしながら天照大神の国の為に尽力した。三貴神の中の月読命とはスサノヲの事であるが、この頃のスサノヲはそれまでの活動とは一転して民のトラブルを解決したり仲裁したりする役割に主に就いていたと思われ、民もスサノヲに頼る事が多くなりその人望は天照大神に匹敵する程になっていた。その為天照大神と比較して表と裏、昼と夜、太陽と月と喩えられるようになっていた事もあったのか以前とは全く異なるこの頃のスサノヲをして元々月と縁深い事もあり、また先読み(予言)や物事の本質を読む事にも長けていた事から特別に別けて「月読命」と称え表現した等と推測される。やがて自らの子達がそれぞれの地域を治められる程に成長すると、スサノヲは八岐大蛇がやって来た地へと向かい海を越えて朝鮮半島に渡り、その際に後に新羅と呼ばれる地域の「ソシモリ」と呼ばれる地も訪れ、ここをしばらくの拠点に朝鮮半島内でその地域の民の為の活動を行なった。(これは所謂朝鮮の壇君の伝説が示す出来事とは別の話である)更に荒唐無稽な話は続くが、スサノヲは朝鮮に留まらず満州蒙古に進みそこでも活動した後、そのままシルクロードを西進しやがてコーカサス山脈周辺まで辿り着く。そこでかつてのDの国にいた「G系統の一族」の末裔達とスサノヲは邂逅し、彼らに自らの持つ知識の一部を与え、また自らの霊の一部(息吹)も与えて彼らの霊と混ぜ合わせ、彼らの霊性を造り変えた(この頃のスサノヲは年もかなり寄りよく想像される「仙人」ような外見になっていたと思われる)。
スサノヲとの接触でG系統の一族の「知能」はそれ以前とは明確に変化し数代の内にそれまでの文化水準とはかけ離れた知識を得、やがて彼らは「シュメール人」となって近代科学文明の直接の祖とも言えるメソポタミア文明を築き上げた。シュメール人達はある時歴史上から突如として姿を消すが、それは彼らが基本的に神の啓示に従って行動していた為であり、役目を終えた彼らは文明を捨てて元のコーカサス地方周辺や「サルディニア島」へと移り住んで目立たぬよう静かに暮らすようになった。Y染色体G系統の人々、特にサルディニア島の人々はシュメール人の直接の末裔であると私は思っている。生命体を構成するたんぱく質、その原料たるアミノ酸にはその構造を鏡写しにした左右逆の対が存在し、通常の化学反応ではその左右、左手系と右手系の両方が精製される。しかし生命に使われるアミノ酸は何故か殆ど左手系のみである。このアミノ酸の左右をどちらか一方に偏らせる為には「円偏光」という特殊な性質の光の中でアミノ酸が生成される必要があり、「オリオン座」の三ツ星のすぐ下にある大星雲(M42)ではこのアミノ酸を左手系に傾かせる円偏光が太陽系の四百倍以上もの範囲に渡って広がっているという。宗教は勿論そうだがオカルトやスピリチュアルも人々にデタラメを吹き込んで騙して儲けようとして作った作り話は多数存在しており、しかしこういう者は悪魔に使われているのだからそのデタラメの中でも無意識の内に善の神とそれに属するものを悪だと設定しがちである。宇宙人はいるが霊的存在であり物質的には地球人以外存在していない。アメリカが宇宙人の存在を仄めかすのは人々がいざ超常的現象に遭遇した等によって信仰心を持ち始めた際、神に代わる存在として宇宙人を刷り込む事で信仰に至る事を妨げるのに役立つからである。我々炭素生命が自然発生する確率の低さは上記で述べたが、SF等でよく述べられる架空の生命である珪素生命についても自然発生する確率は我々炭素生命が自然発生する確率よりも更に低いという。スサノヲは旅立つ前に髪や爪などを残し、それを用いて天之羽々斬と共に岡山県赤磐の熊山に埋めてスサノヲの墓がそこに造られたが、また熊山にはスサノヲの遺骸も埋められているという話であり、この時代にかなりの年と思われる中で驚異的ながらスサノヲはこの後コーカサス地方から日本まで戻ってきた可能性がある。
(ここまでオロチョン族はじめC2系統の人々を八岐大蛇として悪く書いているが、しかしモンゴルなども含めC2系統の民族は基本的に世界で日本人に次ぐ位に(語弊があるが)善良な民族である。しかし現代ではどうかは判らないが彼らには「蒙古気質」というものがあり、これは最初に強く信用し従うと決めた相手が例え後に極悪人に豹変しても裏切らずに従い続けるというような気質で、八岐大蛇の尾たる部下達の大半は最初に「頭」である例外的な極悪人たちの偽善に騙されその本性が明らかとなった後も蒙古気質の為に離れられずついていき続けた為に悪化してしまった人々であると推測される。モンゴル帝国の時も概ねこの通りと思われるが、しかしチンギスハンやフビライハンについては滅ぼした敵国の女性を犯しまくったという話は嘘である(少なくとも誇張はされている)と思っている。この話は一次史料ではなく「モンゴル帝国史」という「イスラム教」であるオスマン帝国の外交官が書いた「小説」が元であり、この話は作者がこの小説を書くに当たってモンゴル帝国の皇帝達もまたイスラムの王達のように侵略した地の女性達を犯す事を愉しみにしていたのだろうという想像によって書かれた物であると私は思っている。女性というものは強かなものである。もしもチンギスやフビライの子を強姦の末に身篭った女性達が複数いたなら、そんな女性達の中には例え憎しみに燃えていても、いや憎しみに燃えているからこそあえて子を産みその子を使い憎む相手に取り入ってその「懐」に深く潜り込もうとする、或いは辱められた屈辱を自ら晒してまで皇帝の子という権威を使いその地域で権力を得よう等する女性達は(特に女性が元王族などなら尚更)数多く現われたはずであるし、皇帝がそんな婚外子まみれだったらモンゴル帝国は40代も存続せず下手をすればフビライの孫の代あたりで内乱塗れになって滅んでいたように私には思われる。モンゴル兵達が殺しまくった事は事実であり、また征服地で強姦などもしていたとは思われるが、しかし東欧などのモンゴル人由来の遺伝子の拡散はこのモンゴル兵達の陵辱によって起こった訳では無く元々遊牧民で定住民族より他国へ移住しやすい故にモンゴル人がモンゴルから周辺地域へと(ただし中国等敵対する国は避けて)頻繁に移り住む事がありそれが主な原因であると私は思っている。でなければ元時代に最も陵辱されていたはずの中国人達にC2が殆どいない事が謎である。
 また蒙古気質以外にもモンゴル人などは元々騎馬民族であり騎馬で戦う民族であった為に、馬や、のみならず車などの「乗り物」に乗っても気性が荒くなり易いようである。また、八岐大蛇は縄文時代の現実世界での出来事においては当時日本に上陸したオロチョン族達の事を指すが、これはあくまで八岐大蛇として表現されている複数の存在の内の一つの意味でしかなく、根本的な意味において八岐大蛇とは主としてこの人間世界全体に普遍的とも言えるほどに遍在する大悪霊の内の一つの事を指している。)

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33田布施 蟻巣 2019/12/30 05:52
スサノヲの出雲は、中心地を含む大部分をスサノヲの子である三女神五男神の内、天穂日命が統治する事となった。この頃の出雲は滋賀以西、近畿圏まで拡がっており、これは月読命としてのスサノヲの功績を称えまたスサノヲへの支持の高まりや天岩戸騒動での反省等からこの代の天照大神がスサノヲの方が統治するに相応しいと京都を退き三重の伊勢へ移られた為と推測される。滋賀以東の北海道を除く東日本を天照大神、滋賀以西を月読命(スサノヲ)、そしてその跡を継いだ天穂日命等が統治し当時はその地域全体をして出雲とよんでいたが、しかしあくまで独立国家ではなく天照大神の国に所属する一地方であった。大国主命とは天穂日命とその子孫である代々の後継者達の事であり大国主の国譲りとは天照大神が再び京都へと戻った際の出来事の事である。大国主にとっての天穂日命とは言うなれば先祖(霊)である。一方で他の五男神、特にニニギ命の先祖とされている天忍穂耳命(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)は、天照大神について愛知周辺地域を当初は統治し、また祭祀を司る天照大神に代わり内政などを担当していた。天照大神と天忍穂耳命の関係は言うなれば現在の天皇と総理大臣のようなものであり、また天忍穂耳命とその後継者である子孫達が所謂「ニギハヤヒ」である。ニギハヤヒは男の太陽神だとか或いは真の天照大神だ等と考えられている事があるがそれは天照大神に代わりこの国の政治を司っていた為である。ニギハヤヒもまた国譲りの際に近畿にその拠点を移している。またスサノヲが去った後、五男神の中の末子である熊野楠日命は、その名にあるとおり紀伊半島南部、熊野周辺を治めていた。(熊は隅の意で端の意味であるが、熊野という地名自体は元は熊野楠日命から来ている可能性がある。しかし残りの五男神の天津彦根神と活津彦根神については(五男神自体はすぐ近くの東近江に縁があるらしいとはいえ)別に彦根に縁があったという訳ではないようである。どうもある時代の彦根の権力者がどういう経緯でかこの神々の名に関する権利を得て後にヒコネの名に改名させたらしい。この二神も(或いは三女神も)何処かを治めていたと思われるが具体的な場所は不明である)当初熊野周辺を治めていた熊野楠日命(八島主命)は、しかし国譲りで天照大神が京都に戻られた事に伴ってニギハヤヒも拠点を近畿に移した為に交替するように東海地方に移り、そして後世のある時代においては富士山周辺地域を拠点としていた。
この頃、当時の中国である秦から徐福が大量の中国移民を引き連れて不老不死の薬を求めて日本へとやって来た。徐福はまず有明海から佐賀県に上陸し九州を回り、その過程で現在の鹿児島県の阿多と呼ばれていた地で神阿多都姫、後の木花咲耶姫と出会い、木花咲耶姫は徐福の一団に同行し共に日本を東へと進んだ。徐福の一団はやがて現在の静岡県へと到達し、そこで徐福は富士山を目撃してその美しさを見初め、ここに不老不死の妙薬があると啓示的に感じてこの地に居住する事を決め、その際にこの地を当時治めていた熊野楠日命の末裔である「ニニギ命」に許可を得ようとし、そしてすんなりと許可を得た。天孫ニニギ命は天忍押耳命の子孫とされているが本当は熊野楠日命(八島主命)の末裔であり、また天孫降臨の高千穂の峯とは現在の九州宮城県の高千穂ではなく富士山の事である。高千穂とは元々特定の地名を指す固有名詞ではない。高千穂の高は高い事を、千は八百万が実際に八百万ある訳ではなく数多くという意味である通り単に大きい事(ただ富士山は実際に三千(七百)メートルではあるが)を意味し、また穂は槍の穂先のように先端が綺麗に尖った様を示し(また「ホ」は火とも通じ火山である事も暗に示しているかもしれない)つまり高千穂の峰とは高く大きな山頂が綺麗に尖った山の事一般を指す「称え言葉」の一種であり、宮城県の高千穂は後にニニギ尊の子の彦火火出見尊が九州に渡った後にこの言葉を元につけられた地名である(宮崎の高千穂にニニギが降臨した訳では無いが、しかしこの名を与えられた通り高千穂は当時の重要拠点の一つではあったとは思われる)。九州に向かったのはニニギ命ではなく子の彦火火出見尊(日の出神)である。富士山から見て「日が向かう方向」にある国だから「日向」と呼んだ。すんなりと居住の許可を得た徐福はニニギへの礼として自らが連れてきた中で最も美しい女性(恐らくだが木花咲耶姫よりも美しかったと思われる)を嫁として薦め、また同時に自らの研究結果である「不老不死の研究(霊法)」をもニニギへと与えようとした。しかしこの世は魂の修行場でありこの世に生を受けたならば必ず死を迎えなければならないのがこの世界の理である。それを冒し肉体的に永遠の生命を得ようという徐福の研究は悪神の物であり、その為にニニギは徐福の研究成果も嫁も断り、代わりに一緒に来ていた木花咲耶姫を嫁に選んだ。
石長姫とはこの時の徐福の不老不死の研究の事でそれを嫁として薦めた女性に例えた事を指す。やがて富士周辺に定住した徐福達渡来人達は、しかし徐々に大陸気質が出始めて諍いはじめた。例えば現在でも日本にやって来た外国人達が日本の中で外国人同士で争いになってそれが時に殺人事件に発展する事が度々起こるようになってきているが、この時の渡来人達の諍いも基本的に渡来人同士の争いであり元々住んでいた縄文人達が対象になる事は少なかった。とはいえ争いは激化しやがて渡来人たちは様々な「派閥」を作って分裂し互いに反目し合うようになり、ニニギ命が治める地域はまるで家(国)が燃えているかのような激しいいがみ合いが常に起きている状態となった。そんな中で木花咲耶姫が妊娠する。木花咲耶姫が徐福達と共にこの地に来た事からその子が渡来人の子ではないかと俄かに噂が広まったが、しかしもし渡来人と自分が関係を持っていたなら必ず彼らの間で噂となり、そしてそんな自分が政治に首を突っ込み渡来人たちを治めようとしたなら必ずその相手とされる者のいる派閥と敵対する派閥の渡来人達によって攻撃されるだろうと木花咲耶姫は燃える家に留まり続けるように妊娠中も国を治める為の活動を続け、そして見事に無傷のまま出産、それを三人の子が生まれるまで繰り返した。そんな中富士山が噴火の徴候を見せる。国を乱した事で神の怒りに触れたのだと争いあっていた渡来人達も恐れおののく中、木花咲耶姫は富士山を鎮める為にニニギ尊や親しき者達に内密で富士山に登り火口へと身を投げた。(日本の古墳から実際に「殉葬」された遺体が見つかっていない通り、人身御供という行為は古代日本には無い。正神は生贄を求めずそれを求めるのは須らく悪神である為である。木花咲耶姫は恐らく徐福から古代中国の人身御供の話を聞き、その為に自ら進んで身を投げた。神は生贄を求めないがしかし他者が救われる事を信じて自らの命を捧げた者の祈りは通じる為に自ら進んで生贄になる場合は神の守護が働く事がある。しかし生贄となる事を「強制」した場合や、また追い込んで断り難くした状態で生贄になる事を了承させる等、生贄がその内心において世界などに対し深い恨みを抱いた状態で犠牲になった場合などはむしろその「逆」となる。特攻隊などもそれである。)火口付近に残っていた遺留品や人身御供の話、そして富士山の活動が治まった事などから、
木花咲耶姫が富士山に身を投げた事を知ったニニギ尊は大いに悲嘆に暮れ、またそれまで争い続けていた渡来人達も争う事を止めた。この徐福が連れてきた中国移民達が日本に入って来た最初の大規模な移民である。Y染色体のOは中国人の系統と書いたが、そのOの中でも中国にはおらずほぼ日本固有の系統(O2b1)が存在する。恐らくこの系統が徐福達最初の渡来人達が持っていた系統である(徐福が書いたと言われる古代世界の歴史が書かれている宮下文書、通称富士古文書は偽書とされているがしかし(竹内文書もそうだが)これには真実も書かれているらしく、宮下文書についてはそのオリジナルは本当に徐福、或いは徐福から漢字を教わったニニギ尊等が書いたものと推測される。しかし現存するものは元の原文そのままではなく、後世の者、特に恐らく国学が盛んとなった江戸時代で国学をかじった者などが当時の未熟な学術研究から来る不完全な知識から見ておかしいと思った部分を勝手に改変したり、また権威を求めて勝手に誇張したりしかなり変質してしまっていると推測される)。ニニギ尊はこの悲劇の原因である中国移民達のこれまでの様子から、技術が進歩し次々と海を越えてやってくるだろう彼ら移民達を放っておけばやがてこの国そのものがいつか完全に破壊されかねないという事に思い至った。しかし今は大人しくなっている渡来人達がまたいつ争い合いはじめるかもわからない中で自分がここを離れれば渡来人達を抑えられなくなる為にニニギ尊自体は動けず、代わりに子である彦火火出見尊が「移民が最初に入ってくる地」である九州へと向かい「移民達に対処する為の国造り」をはじめた。徐福は秦氏と同じ民族であったというが(万里の長城の奴隷民を引き連れて朝鮮半島に移った秦氏の祖先は、徐福が帰ってこなかった事からその責任を負わされ万里の長城建設の苦役に就かされていたのかもしれない)ここで彦火火出見尊が出会った海神も恐らく辰韓(辰国)の「同じ民族」であったと推測される。(秦氏の系統と思われるO2b1は秦氏がいた日本と朝鮮にしかほぼ無く、秦氏がこの系統の元の民族の一部と交わったというより元の民族全体が秦氏になったかのような分布になってしまっており、或いはユダヤは元々はJ系統だと上記では書いたが失われた支族の中には元々アラビア半島以外からやってきた一族がいて、秦氏も元からO2b1であった可能性がある。)
彦火火出見は彼らと邂逅し彼らの協力を得る事(移民達と交わり、その力(悪性も含む)を取り込む事でそれを利用し自らその悪性を「外国流のやり方」で直接制御する「悪を以って悪を制す」やり事)を選択、彼らの技術を得た事もあって一気に九州で勢力を伸ばし、子のウガヤフキアエズ尊の代で九州をほぼ掌握(ウガヤフキアエズ朝などが考えられているが、ウガヤフキアエズ尊は恐らく一代、多くて二、三代程度である)、孫の神武天皇の代で九州での国造りは一旦の完成を見せた。神武天皇はしかし尚増え続ける移民に対し九州だけではなく日本全体で移民に対処できるようにならなければならないと感じ、啓示を受け日本の中心地である近畿へと東征をはじめた。ここで神武天皇は最初に大阪側から攻めようとして失敗して敗走し「熊野」へと回り、そこでヤタガラスの協力を得て反対の奈良側から攻めた事で優勢となり、ニギハヤヒとの交渉の際にはスサノヲからその子供達に与えられその後継者である子孫達にそれぞれ代々受け継がれ続けてきた「天津瑞」(恐らく実体は無く、また現在では失われていると推測される)を神武天皇が見せた事でニギハヤヒは神武が紛れも無くスサノヲの子孫であり、またこの東征も神意であると判断、その代の天照大神へと判断を仰ぎ結果天照と共に神武に国を譲る事を決めた。しかしこの際にニギハヤヒの部下の長髄彦が、代々国政を司ってきたニギハヤヒの天忍穂耳命の系統ではなく、また代々出雲を統治している天穂日命の系統ですらない熊野楠日命の系統の者に国を譲るなど認められないと強く反対し、ニギハヤヒによって殺された(実際には役職を解かれ追放された程度(社会的に殺された)と思われる)。これを受けて民の余計な反発を避ける為に神武天皇、及びその祖であるニニギ尊は熊野楠日命ではなく天忍穂耳命の子孫であるという事にされた。籠神社の海部氏系図は漢字で書かれている通り漢字の伝来(一般普及)後にこの時に捏造され流布された系統を元に書かれたものである。また神武への国譲りの際にその代の天照大神が神武と結婚し、神武の地位を確固たるものとした。天照の女系は神武と結婚後も祭祀を代々担当していたが、恐らく崇神天皇の時代の伊勢神宮への遷宮の際にその任を解かれている。神武天皇から崇神天皇の間の歴代天皇は実在しないと現在では考えられていて欠史八代などと言われているが実在している。しかし記紀の記述にあるような人間離れした長寿ではなく、
長寿ではあったがあくまで現在の長寿の方ぐらいの寿命である。またその記述が極端に少ないのは開化天皇のように時節が来るまでは秘しておくべきだった事績を行なっていた為というような場合もあるが、基本的にそれまで通りの縄文的な暮らしを送れる程に平和だった為である。しかし時代を経る毎に移民とその子孫達の数が増えると共に徐々にその悪性が露呈しはじめ、また崇神天皇の時代についに大量生産出来る金属精製技術と鍛冶技術が流入する兆しが見えた事などから、崇神天皇は各方面において悪で悪を抑える為の悪的改革に一気に踏み切った。「本当の歴史」の大部分もまた、恐らく大化の改新のはるか以前のこの時には既に失われていたと推測される。

ここまで書いた通り、天皇家の直接の祖はスサノヲである。繰り返すが上記の歴史観はあくまで私個人の考えであり、固執するつもりは無い。真の歴史など学術的に解明される事など無いだろうが、しかし神話や伝承を読み解く事で、またそれと発掘事実などを摺り合わせる事などで新しい発見や辿り着ける事実がある事は確かにあり、これはその(反面教師という意味も含めた)一つの例である。また記紀などの神典にこのような真の歴史的な意味が隠れていたとして、それはあくまで神典に込められた複数の意味の内の一つでしかなく、一つの記述においてある歴史上の出来事を示しているとしてそれのみでなく同時にその記述が別の場所や時代での別の歴史上の出来事や、また霊界の出来事、或いは訓戒的、哲学的、またあらゆる比喩的な意味や予言的な意味、更には俗的な意味や個々人のみにおいての個別的な意味なども含め諸々が併せて隠されている事が多々あり、神典の解釈については一つの意味にのみ拘るべきではない。

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34田布施 蟻巣 2019/12/30 05:53

はじめは影だった。
彼の父は殺された。しかし世間一般では病死という事にされた。それは彼の父が殺されたという事が弱みとなり、全てが台無しになる事を避ける為だった。父の死からほどなく、彼が父の代わりになった。しかしすぐに彼もまた殺された。彼の父の死の時と同じく敵対勢力の手によるものと、彼らは偽った。彼の父が彼らに殺された事は、既に遠く外国にまで噂が広まっていた。彼はいずれその噂を聞いていただろう。そうなれば、いずれ自分達に歯向かうようになる。だから彼らは彼も殺した。彼の周りの人達は、彼の代わりを立てねばならなくなった。しかしそれが成るのを目前に彼の父と彼と立て続けに二代も殺されたと世間に知られれば、全てが台無しになるかもしれない。それに彼の代わりになった者もまた、殺される可能性が高かった。だから彼らは自分達の中から影を立てた。彼の周りの人達には、それが成り上手く軌道に乗った時に全てを明かすと偽って。だから、彼の周りの人達は、影が彼の代わりになる事を黙認した。彼の死は世間に隠された。影が彼だという事になった。それが成ったのは、影が彼の代わりになって一年も経たない内の事だった。
彼の周りの人達は、彼らの事を怪しんではいた。しかし確たる証拠は掴めず、また、彼らに歯向かえば彼や彼の父のように殺されるのは目に見えていた。そして何より、それを成すには彼らの力が必要で、他の多くの人々の為にも彼らと反目する訳にはいかなかった。彼の周りの人達には、力が無かったのだから。だから時を経て彼らの言葉が嘘だとはっきりとわかり、全てが手遅れになって尚、彼の周りの人達にはどうする事もできなかった。影は、彼になった。はじめは影だった。
それ以前の彼と、父の代わりになった後の彼とは、何もかもが違いすぎていた。彼自身が変わったというには全てがあまりにも急速で急激すぎる変化だった。

                                              田布施 蟻巣
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