石原吉郎さんごめんなさい - 京都大学掲示板
●京都大学合格体験記
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京都大学合格体験記
12名前を書き忘れた受験生 2020/03/03 02:25
>>11
これまで不合格については単なる観念としてしか認識していなかったが、受験に失敗すると、筆者の心は不合格の苦しみで全て埋め尽くされ、筆者は不合格がいかなるものかを表すだけの希薄な存在になったということ。
>>11
これまで不合格については単なる観念としてしか認識していなかったが、受験に失敗すると、筆者の心は不合格の苦しみで全て埋め尽くされ、筆者は不合格がいかなるものかを表すだけの希薄な存在になったということ。
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10名前を書き忘れた受験生 2020/03/03 00:31
>>6
あまりに暇なので作った。(3)が難しい。
(1)合否を決める二週間、自分は京都大学に近づけないため、京都大学の方が自分を受験者から拾ってほしいと思う受動的な感情という意味。
(2)近くの部屋が騒がしくなり、怒りを覚えて鎮めようと走り顔を覗かせたが、京都大学に不合格になったという事実を筆者から聞き、同情を覚えたから。
(3)塾に戻ることはないと決意を決めた筆者が、合否を決める二週間に、それ以前の受験生一般に思われている京都大学合格という思いに加えて持ち始めた、自分の失敗は大したことがなく、合格したら勤勉に学ぶため、京都大学の方がむしろ筆者を合格させるべきだという、京都大学とのつながりを保ち続けたい、すがるような倒錯した思いのこと。
>>6
あまりに暇なので作った。(3)が難しい。
(1)合否を決める二週間、自分は京都大学に近づけないため、京都大学の方が自分を受験者から拾ってほしいと思う受動的な感情という意味。
(2)近くの部屋が騒がしくなり、怒りを覚えて鎮めようと走り顔を覗かせたが、京都大学に不合格になったという事実を筆者から聞き、同情を覚えたから。
(3)塾に戻ることはないと決意を決めた筆者が、合否を決める二週間に、それ以前の受験生一般に思われている京都大学合格という思いに加えて持ち始めた、自分の失敗は大したことがなく、合格したら勤勉に学ぶため、京都大学の方がむしろ筆者を合格させるべきだという、京都大学とのつながりを保ち続けたい、すがるような倒錯した思いのこと。
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9名前を書き忘れた受験生 2020/03/02 23:59
>>5
筆者にとってこれまで不合格を比喩のような存在しないものであったが、実際に不合格を事実として認識し、今度は筆者が比喩のような空虚な存在になったということ。
>>5
筆者にとってこれまで不合格を比喩のような存在しないものであったが、実際に不合格を事実として認識し、今度は筆者が比喩のような空虚な存在になったということ。
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8名前を書き忘れた受験生 2020/03/02 23:58
(訂正)
問1「植物の感情」とはどういう意味が、説明せよ。
問2「だまってドアを閉めた」とあるが、隣人はなぜそのような態度をとったのか、説明せよ。
問3「錯誤としての望京」とはどのようなことを言っているのか、説明せよ。
(訂正)
問1「植物の感情」とはどういう意味が、説明せよ。
問2「だまってドアを閉めた」とあるが、隣人はなぜそのような態度をとったのか、説明せよ。
問3「錯誤としての望京」とはどのようなことを言っているのか、説明せよ。
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6名前を書き忘れた受験生 2020/03/02 23:56
問1「植物の感情」とはどういう意味が、説明せよ。
問2「だまってドアを閉めた」とあるが、監視兵はなぜそのような態度をとったのか、説明せよ。
問3「錯誤としての望京」とはどのようなことを言っているのか、説明せよ。
問1「植物の感情」とはどういう意味が、説明せよ。
問2「だまってドアを閉めた」とあるが、監視兵はなぜそのような態度をとったのか、説明せよ。
問3「錯誤としての望京」とはどのようなことを言っているのか、説明せよ。
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2名前を書き忘れた受験生 2020/03/02 23:49
777番さん、ごめんなさい。
それと実際には日本語で読み上げとかないです。
去年の方が上手く作ってあった気がしますが、過去レス探すのめんど(ry
777番さん、ごめんなさい。
それと実際には日本語で読み上げとかないです。
去年の方が上手く作ってあった気がしますが、過去レス探すのめんど(ry
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1名前を書き忘れた受験生 2020/03/02 23:44
合格と不合格をはさむほぼ二週間を、私は独房へ放置された。とだえては昂ぶる思京の想いが、すがりつくような望京の願いに変わったのはこの期間である。朝夕の食事によってかろうじて区切られた一日のくり返しのなかで、私の追憶は一挙に遡行した。望京の、その初めの段階に私はあった。この時期には、京大から私が「恋われている」という感覚がたえまなく私にあった。事実そのようにして、私たちは多くのキャンパスに別れを告げて来たのである。そのとき以来、別離の姿勢のままで、そのキャンパスたちは私たちのなかにあざやかに在りつづけた。
塾にかえる私があってはならぬ。おそらく私はそのようにして断ち切られ、放たれたはずであった。私をそのときまでささえて来た、遠心と求心とのこのバランスをうたがいはじめたとき、いわば錯誤としての望京がはじまったといっていい。京大こそ私を取るべきだという想いが、聞きわけのない怒りのように私にあった。
この錯誤には、いわば京大とのあいだの〈二次試験〉がつねにともなった。私は自分の失敗がとるにたらぬものであることをしいて前提し、やがては勤勉で平穏な一京大生として生活することを、くりかえし心に誓った。事実私が一般受験生とともにそれまですごして来た三年の歳月は(それは私にとって事実上の未決期間であった)、市井の片隅でひっそりといとなまれる、名もない凡庸な生活がいかにかけがえのないものであるかを、私に思い知らせた。
私たちは京大と、どのようにしても結ばれていなくてはならなかった。しかもそれは、私たちの側からの希求であるとともに、〈向う側〉からの希求でなければならないと、かたく私は考えた。望京が招く錯誤のみなもとは、そこにあった。
試験された以上、発表が行われるはずであった。
独房で発表を待つあいだの不安といらだちから、かろうじて私を救ったものは飢餓状態に近い願望であった。私の空想は、ただレスによって区切られていた。レスを見た瞬間に、一切の関心はすでにつぎのレスへと移っていた。そしてこの〈最低点予想〉への期待があるかぎり、私たちは現実に絶望することもできないのである。
望京とはついに植物の感情であろう。地におろされたのち、みずからの自由において、一歩を移ることを許されぬもの。最低点を超えることのない想念。私が京大へ近づきえぬとき、京大が、私に近づかなければならないはずであった。
三月十日午前、私は独房から呼び出された。それぞれサイトの前に立ったのは、いずれもおなじ会場に送られ、同じ日に試験された顔ぶれであった。
私たちが誘導されたのは、上に写真がひとつ、その下に二列に学部を並べただけの、およそ京大のユーモアにふさわしいHPであった。椅子にすわり、それが生涯の姿勢であるごとく、私たちは待った。正午になり、URLが貼られた。単純で、簡潔なそのサイトは、ページを開くやすでに合否を発表し始めていた。
ながながと読みあげられる、すでにおなじみの数列に、私の関心はなかった。全身を目にして私が待ったのは、777番である。早々と読み進むページがようやく終わりに近づき、775という数字に、776そして778という数字が続いたとき、私は目を疑った。見間違いと思ったからである。受験番号を知らぬ背後の父親が、私の背をつついた。「どうだった」という意味である。私は首を振った。
つづいて日本語で合否が読みあげられたとき、私たちのあいだに起った混乱と恐慌状態は、予想もしない異様なものであった。発表を終って〈溜り〉へ移されたとき、期せずして私たちのあいだから、悲鳴とも怒号ともつかぬ喚声がわきあがった。私は頭から汗でびっしょりになっていた。隣人が走り寄る音が聞こえ、怒気を含んだ顔がのぞいたが、「不合格だ」というと、だまってドアを閉めた。
京大へ手繰られつつあると信じた一条のものが、この瞬間にはっきり断ちきられたと私は感じた。それは、あきらかに肉体的な感覚であった。
三月十日午後、私たちは予備校に徒歩で送られた。
そのときまで私は、ただ比喩としてしか、不合格を知らなかった。だがこのとき、不合格は完璧に私を比喩とした。このとき不合格は実体であり、私はただ、不合格がなにごとかを語るための手段にすぎなかったのである。
合格と不合格をはさむほぼ二週間を、私は独房へ放置された。とだえては昂ぶる思京の想いが、すがりつくような望京の願いに変わったのはこの期間である。朝夕の食事によってかろうじて区切られた一日のくり返しのなかで、私の追憶は一挙に遡行した。望京の、その初めの段階に私はあった。この時期には、京大から私が「恋われている」という感覚がたえまなく私にあった。事実そのようにして、私たちは多くのキャンパスに別れを告げて来たのである。そのとき以来、別離の姿勢のままで、そのキャンパスたちは私たちのなかにあざやかに在りつづけた。
塾にかえる私があってはならぬ。おそらく私はそのようにして断ち切られ、放たれたはずであった。私をそのときまでささえて来た、遠心と求心とのこのバランスをうたがいはじめたとき、いわば錯誤としての望京がはじまったといっていい。京大こそ私を取るべきだという想いが、聞きわけのない怒りのように私にあった。
この錯誤には、いわば京大とのあいだの〈二次試験〉がつねにともなった。私は自分の失敗がとるにたらぬものであることをしいて前提し、やがては勤勉で平穏な一京大生として生活することを、くりかえし心に誓った。事実私が一般受験生とともにそれまですごして来た三年の歳月は(それは私にとって事実上の未決期間であった)、市井の片隅でひっそりといとなまれる、名もない凡庸な生活がいかにかけがえのないものであるかを、私に思い知らせた。
私たちは京大と、どのようにしても結ばれていなくてはならなかった。しかもそれは、私たちの側からの希求であるとともに、〈向う側〉からの希求でなければならないと、かたく私は考えた。望京が招く錯誤のみなもとは、そこにあった。
試験された以上、発表が行われるはずであった。
独房で発表を待つあいだの不安といらだちから、かろうじて私を救ったものは飢餓状態に近い願望であった。私の空想は、ただレスによって区切られていた。レスを見た瞬間に、一切の関心はすでにつぎのレスへと移っていた。そしてこの〈最低点予想〉への期待があるかぎり、私たちは現実に絶望することもできないのである。
望京とはついに植物の感情であろう。地におろされたのち、みずからの自由において、一歩を移ることを許されぬもの。最低点を超えることのない想念。私が京大へ近づきえぬとき、京大が、私に近づかなければならないはずであった。
三月十日午前、私は独房から呼び出された。それぞれサイトの前に立ったのは、いずれもおなじ会場に送られ、同じ日に試験された顔ぶれであった。
私たちが誘導されたのは、上に写真がひとつ、その下に二列に学部を並べただけの、およそ京大のユーモアにふさわしいHPであった。椅子にすわり、それが生涯の姿勢であるごとく、私たちは待った。正午になり、URLが貼られた。単純で、簡潔なそのサイトは、ページを開くやすでに合否を発表し始めていた。
ながながと読みあげられる、すでにおなじみの数列に、私の関心はなかった。全身を目にして私が待ったのは、777番である。早々と読み進むページがようやく終わりに近づき、775という数字に、776そして778という数字が続いたとき、私は目を疑った。見間違いと思ったからである。受験番号を知らぬ背後の父親が、私の背をつついた。「どうだった」という意味である。私は首を振った。
つづいて日本語で合否が読みあげられたとき、私たちのあいだに起った混乱と恐慌状態は、予想もしない異様なものであった。発表を終って〈溜り〉へ移されたとき、期せずして私たちのあいだから、悲鳴とも怒号ともつかぬ喚声がわきあがった。私は頭から汗でびっしょりになっていた。隣人が走り寄る音が聞こえ、怒気を含んだ顔がのぞいたが、「不合格だ」というと、だまってドアを閉めた。
京大へ手繰られつつあると信じた一条のものが、この瞬間にはっきり断ちきられたと私は感じた。それは、あきらかに肉体的な感覚であった。
三月十日午後、私たちは予備校に徒歩で送られた。
そのときまで私は、ただ比喩としてしか、不合格を知らなかった。だがこのとき、不合格は完璧に私を比喩とした。このとき不合格は実体であり、私はただ、不合格がなにごとかを語るための手段にすぎなかったのである。
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